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『透 明なま ま息し て』 村上万葉・山本ジャスティン伊等・ordinary sculpture 3者インタビュー

2023-03-11

mayo_karera_yamamoto

2023年1月7日、​​村上万葉さん、山本ジャスティン伊等さん、ordinary sculpture(山本卓弥さん)にインタビューを行いました。それぞれ立ち位置や役割の異なる3人が、3月4日からはじまる展示に向けて準備を進める中、本展の企画の経緯や、どのような展示を作り上げようととしているのか、お話を聞いてみました。展示になる前の過程や3人の考察をお伝えします。
(インタビュアー 山内 / 記事編集 中庭)

* 3名のプロフィールについてはこちらを参照

― 今回の企画の経緯について教えてください。

ordinary sculpture 山本 卓弥さん(以下、山本)
そもそもは、僕が村上さんの作品に興味を持ってご連絡したのがきっかけでした。初めてみた村上さんの作品はストッキングの作品です。フォルムとしてすごいかわいいし、簡単に持てるぐらいの小さなプロダクトなんですけど、なにか生々しさというか、怖さみたいなものがあって、かつ集合体で広がっていく形に興味を持ちました。

「村上さんの作品は都内で観れますか?」とご連絡したら、アトリエに作品を並べていただくことになって。最初、展示のことは考えてなかったんですけど、単純にひとつだけ購入させてもらっても、という感じがしたし、いろいろ置かれてる状態を僕自身見てみたいと思い、展示を提案しました。

ホワイトキューブのギャラリーで展示するよりも、外とか、ちょっとイレギュラーな場所での展示に興味を持っていたとこともお話ししたんですけど、村上さんから Open Letter のことを伺って、ご連絡させていただきました。もう1年以上前です。

村上万葉(以下、村上)
そうですよね。そこでどういう形態の展示にしようかという話になりました。しばらく個展が続いていたので、誰かと一緒にやりたいなと思ったんですが、2人展という形じゃなくて、ちょっとイレギュラーな感じにしたいと思い、カレラ(山本ジャスティン伊等)くんに声をかけてみました。元々カレラくんは友達で、カレラくんの戯曲の公演のポスターに私の作品を貸し出したり、私の展示にカレラくんに詩を書いてもらったり、ずっとやり取りがあって。お互いがお互いの作品をこっそり利用しているみたいな共犯関係を、もうちょっとちゃんと形にしたいなと思ったんです。

image9〈配置された落下〉(2019年)フライヤー、掲載作品《untitled》
〈脱ぎ捨てられた視線〉(2020年) 展示風景より 山本ジャスティン伊等による詩

― これまでもこういう形で展示をしたことは村上さんもありましたか?

村上
誰かにパフォーマンスをしてもらうのは完全に初めてですね。

― それも踏まえて、みなさんがお互いの表現活動をどう捉えてるのか、聞いてみたくて。

村上
カレラくんの活動をどう捉えてるかいうと、難しいんですけど、ずっと面白いことしてるなという感覚はあって。それと関心の方向性はちょっと似てるのかなという気はしていました。カレラくんにはサミュエル・ベケットという軸があるので完全に一緒というわけではないんですが。

アウトプットの仕方が面白いんです。台詞にしても役者さんの動きにしても、他であんまりないようなものを作ってるなという印象があって。普段のカレラくんが喋ってる感じを知っているから面白いと思う時もあります。

カレラくんの作品は〝怖さ〟とか〝えぐみ〟みたいなものもあって、見るとちょっと怖い気持ちになるのがいいんです。かつギャグみたいな台詞をちょこちょこ入れてて、誰も笑わないんですけど、個人的には気に入ってます。シリアスで怖い話をしてる中で、突然すごい変なギャグが入ってくる感じとか、カレラくんの普段の喋りっぽいと思って。作品と本人のイメージが合致してるな、という感じで見ています。

― 今の話を聞くと、時より挟むギャグ的なものが重要な要素に思えます。

山本ジャスティン伊等(以下、カレラ)
いや、なんか何て言うんですかね、自分は、目の前にある状況に対して、別の論理やフレームがどんどん介入してくることが面白いと感じているんだと思います。例えば僕がこうしてインタビューの途中で自分のリュックからマグロの切り身を出したら、それをギャグとして受け入れることもできるけど、一方で、それをどう受け取って良いのか戸惑うと思うんです。だから「お笑い」みたいなギャグではなくて、別世界のものが入ってくることによる戸惑いみたいなものが、笑いとして受け入れられているのかなと思っています。

僕は日常的な身振りや動作とは少しかけ離れたものを俳優に求めることが多いんですが、それは言葉や互いの身体、照明、音響といった、舞台を構成するもの同士が異質なものとして絶えず介入しあうことに魅力を感じているからだと思います。

昔からある問題ですが、観客が舞台に対してどのような立場から接するかという問題に対して、僕は観客が完全に阻害されるような空間を作りたいのだと思う。今、こうして話している僕の身振りは言葉と一致してるわけですけど、そこを敢えてちょっと距離をもたせることで生まれてくるものを見たいと思ってやっています。

― 山本さんについてはいかがですか?

村上
山本さんからは「展示をやりませんか」と声をかけていただいて。そういう働きかけをしてくれるのはいいなと思いました。それと、私の展示の前に山本さんがお手伝いされてたのが菊地風起人(きくちふきと)さんという私の大学の先輩の展示で、その展示の写真を見せていただいたときに面白いなと思いました。

㈫_2菊地風起人〈もっと人と会える広場〉(2021年, SHAKOBA)より。作家である菊池風起人さんが作品と人との距離に対して
柔軟な考えを持っていて、額や白い背景から離れキャンバスをそのまま固定するという変則的な展示が可能で、誰でも
動かしやすい展示什器を設計した。

村上
山本さんは活動が肩書きにはまらないような、すごく流動的な位置というか。キュレーションほど作品や展示に干渉してくるわけでもないけど、サポートはしてくれる。若手の作家がひとりで管理しきれなかったり、アップアップになってしまうところを支えてくれるスタンスで、能動的に関わってくれています。

山本さん自身は、まだ活動の内容とかそんなに定まってないとは思うんですが、今回の展示が、今後アーティストとどう関わっていくか指針を決めるためのひとつの経験になればいいなと思います。

それと、アーティストだけの会話って結構煮詰まりやすいというかハードになりやすいので、山本さんがいてくれることで助かっています。第三者の人の言葉の方が意外とシンプルだったりすることもあるので。

山本さんが作成したマケットで展示プランを練る 

― 現時点の展示の構想を教えてください。

村上
2019年の小金井のアートスポットシャトーで、インスタレーション全体で見ると私の身体の形が浮かび上がってくる形式の展示(<I miss me>2019年)をやったんですけど、今回はその発展形です。自分の身体感覚とか皮膚感覚をどこまで延長できるか、自分と世界の境界はどういうところにあるかを推し量るようなインスタレーションをやろうと思ってて。靴下の作品と、自分の手のひらの形をかたどったような粘土の作品をたくさん作っています。

image6〈I miss me〉(2019年)展示風景より《私が地面を押すと地面は押し返す》

村上
もうひとつ、毛糸で指編みをしていて。指編みという、自分の親指以外の4本に糸を巻き付けて編んでいく編み方があるんです。必然的にこの一つひとつの網目の太さが自分の指の太さと対応していきます。すごく長く作っていて、インスタレーションの一部に使えたらなと思っています。

image5

村上
自分の身体と対応するような作品を作って、どこまでが自分の身体か、どこまで自分を延長させられるのかがテーマになっています。インスタレーションについては、カレラくんがもうちょっと落ち着いてから話し合います。(当時、カレラさんは『脱獄計画(仮)』上演準備中)

カレラ
村上さんがちょっと前に「憑依」の話をして、テーマにしようという話もありました。今作ってる『脱獄計画(仮)』という演劇作品と、アウトプットは違うけど考えはひと続きのものにしようと思っていて。

image2Dr. Holiday Laboratory〈脱獄計画(仮)〉より。photo by マコトオカザキ (2023年)

カレラ 
演劇は、とても大雑把に言うと、戯曲というテキストがあって、それにしたがってなんらかの場や時間を制作することで〝上演した〟とされる。人間が戯曲に書かれているルールや言葉に沿って動き、言葉を喋るのが、もっとも典型的な上演のあり方ですね。逆に言えば、戯曲に沿って発話や身振りがなされることが前提となる舞台という空間では、何をしてもその戯曲の通りになっている、あるいはいくらそこから外れたものを作ろうとしても、やはり戯曲に根ざした表現と見なされてしまうという〝呪い〟があると考えています。それが〝役を演じる〟ということと、どういう関係を持ってるのかが問題になるんです。

俳優は「わたしは演じるぞ」という意志を持って舞台にいて、演技をしていると思っているけれど、実際には、その意志するという行為自体、戯曲に書き込まれているかもしれない。『脱獄計画(仮)』では、こうした、人間の意志があらかじめ書き込まれている場を〝戯曲〟〝法〟などと呼んでいますが、むしろ完全に自分の意志だと思われるところにこそ、能動性と受動性が逆転するような要素が潜んでいるのではないかと考えています。

ちょっと話し過ぎてしまいました(笑)。今回の展示の話に戻ると、僕が大学院でずっと研究していたサミュエル・ベケットという作家がいるんですけど、ベケットに『モノローグ一片』という演劇があります。ある一人の男が部屋の中で「彼はあの日〇〇した」というように三人称で別の男の物語を喋るんですが、その内容が、喋っている男がいる舞台の状況と一致したりしなかったりするんです。男が喋ることで喚起される想像と、いま観客が見ているものが一致したりしなかったりする、そのギャップが問題になります。今回の展示でもそのあたりをベースに何か作れないかと思っているところです。

それから、ちょっとこれはパフォーマンスとしてやれるか分からないのですが、普通に生きている時間とは別に、〝フィクションの時間〟があることを表現できないかと思って。例えば映画の中だと、ある人が昨日こんなことがあったと喋っていて、次のショットで別の空間が映ると、それが昨日の回想だと分かる、フィクション上の「お約束」がありますよね。

例えば、ホン・サンス『クレアのカメラ』(2017年)という映画に、いま言ったような場面があります。主人公のクレア(=イザベル・ユペール)がある韓国人映画監督(=チョン・ジニョン)とご飯を食べるシーンがあるんですが、そこで映画監督はある女性を探していることをクレアに話す。すると、彼女は「その人ならこの間会いましたよ」と彼にその女性の写真を渡すんですね。この食事シーンの後、クレアはそこで話題にされていた写真の女(キム・ミニ)と出会います。すると、映画を見ている観客は、「これは過去の回想だな」と思うわけです。

ただ、回想だと思って見ていると、写真の女が「私、ある男に探されているの」と話をし始める。するとやっぱりクレアは「その人、この間会いましたよ」と言って、映画監督が写っている写真を渡すんです。

そもそもフィクションというのは、例えば映画の場合で言うと、映っているショットの順番が、そのまま物語内の出来事の時間と完全に一致すると思っている人はいないわけですよね。つまり、映っているショットはA→B→Cという順番でも、物語内の時間はB→C→Aだったりする。
『クレアのカメラ』では、クレア以外の登場人物はフィクションの中の世界で生きているわけですが、クレアだけは、リテラルなショットの順番と、物語内の出来事の順番、両方の時間軸をまたがって存在しているような感触がある。

この映画のキャッチコピーを見ると、「クレアの写真が未来を写す」という設定だと分かるんだけど、でもこの作品はそういう単純な話に収まらず、フィクションの中で未来が見えるとはどういうことか? というのを考えたときに、映画が持つ形式や時間と、フィクションの中の時間が奇妙に混じり合い、越境するということを示していると思います。

また別の話が長くなってしまいました。今回の展示の話に戻ると、観客に向けて、僕(=パフォーマー)が、物語の中と現実の時間の両方にいることをどうやって表現できるのか、そういう作品の形式はどうやったら作れるんだろう? と今考えています。ただ、それを観客が黙って観る演劇作品じゃなくて、村上さんの作品が置かれている中で、どうやるのかはまだ検討中です。

― クレア的な存在を。

カレラ
そうですね。そこにさっき言った〝憑依〟みたいな〝役〟、僕にとっては〝役〟を演じるという問題と絡ませていけたらいいな、と思っています。

村上さんの靴下の作品やゴム手袋の作品がある、そういう空間を使っていくのがいいんだろうなと思いつつ、さっき話した『モノローグ一片』という、家の中でずっと喋ってる男がいるイメージが自分の中に浮かんでいて、大きい参照点になるだろうな、という予感がしています。

― 今回の展示で試してみたいことがあれば教えてください。

村上
カレラくんのパフォーマンスがあることで展示空間が流動的になるんじゃないかと。美術館だったら空間が大きすぎて、自然と時間の経過や体の疲労感を感じるんですけど、これぐらいの規模のギャラリーだと、入ってから出るまでの時間の経過って感じづらいと思うんです。

だけどパフォーマンスがあることで、誰か人がいたり、何か喋ってたりして空間自体が常に移り変わるので、空間が固定されずに、現実とひと繋がりの時間みたいなものが生まれるかと。一方で展示の異様な空間があるという体験をしてもらえたら、というのがひとつチャレンジです。

もうひとつは、さっきお見せした指編みの作品です。ずっと編み物で作品を作りたいと思っていました。編み物や手芸を作品化するとアート的な読み方をあまりしてもらえないという印象があって、難しいと思っていましたが、私自身は〝編む〟という行為自体にすごく関心があるんです。

大学生の頃、ダンボールで作品を作るという課題があって、ダンボールを紐状にしてひたすら編みました。その時、作品制作のテーマに〝自由〟〝戦争〟〝差別〟のどれかを選ぶ必要があって、私は〝差別〟を選びました。自分の母方のルーツが被差別部落なんですが、部落の人たちが編んでいたわらじ編みを作品を通じて追体験しようと思って、ダンボールをひたすらただ編み続けました。

その頃から、自分の同じ行為が連続していく中で何かができていく〝編む〟という行為がすごく面白いなと思っています。

カレラ
僕はやっぱり、村上さんの活動全体が、「私とは何か」とか「私の体がそこ(私の体とは別の空間)にあると信じてしまえるということはどういうことなのか」といった問題を扱ってると思っていて。それは自分の関心とも近いところがあるので、演じることを通して村上さんの展示空間に何かもうひとつ乗せられたらいいなと思っています。

どうやって作品を作るかは、さっき話したように「役を演じる」という問題が焦点になりますね。自分から意志して演じていると思っていたものが、実際にはすでにそのように意志すること自体が書き込まれている、あるいは他人の想像によって俳優の身体に役をあてがわれるという、能動と受動が逆転するような構造が面白いなと思っていて。

つまり、役と呼ばれる、自分とは別のアイデンティティが他人の視線によって貼り付けられていくという、ある種の暴力性みたいなものを、村上さんの展示空間の中でどうやって乗っけていくのかが一つの主眼になってくるかと思います。

― 山本さんはいかがでしょう?

山本
僕自身、作家さんとこういう形で企画からご一緒するのは今回初めてなのですが、什器も含め、僕の準備次第で空間の善し悪し自体を左右してしまうかなと思っていて。

多分僕自身もやったことのない部分も出てくるかなと思うので、その辺りはクオリティを下げずに、ちゃんと形にしていきたいですね。

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村上万葉 『透 明なま ま息し て』は2023年3月4日~4月2日で開催中です。
展示詳細はこちらをご覧ください。
Instagram ハッシュタグ #透明なまま息して からも展示の様子をご覧いただけます。

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